休職 diary

休職中の日記です

私の転機は現在進行形

✳書いていたらかなり長文になってしまいました。
病気の記述もあります。読まれるときはご注意ください。





私はずっと地方にいて、子育てをしながら働いてきました。下の子が就職してしばらくして、ふと職場で「私じゃなくてもこの仕事はできるよなぁ」と思った日がありました。でも職場の人間関係やお得意先様との関係がとても良く、10年以上やってきて慣れた仕事でもありました。


1年ほど経った頃でしょうか?下の子が今の会社を辞めてやりたいことがあるから、家を出ると言い始めました。そのときに父とあとどれくらい一緒に過ごせるだろう?と考えました。私は21歳で結婚してからずっと親元を離れていました。また母はすでに他界しています。


私は42歳のときに離婚をして、それと前後して父にがんが見つかりました。体調を崩し近くのクリニックに行ったら紹介状を出され、総合病院で精密検査をしようとしたところ大腸スコープが入らず即入院。手術をして原発巣は切除、遠隔転移している部分は手術ができない状態でした。


でも父は抗がん剤を使えば転移した部分も小さくなり、手術をしたら治ると強く信じていました。たくさんの薬を飲みながら自分なりに研究して、健康に良さそうだと思えば自炊して、いろいろ工夫して取りいれていました。日々の行動をすべて記録したり、レシピを作ってファイルしたり、そのあたりはとてもマメでした。


治療で入院すると病院のスタッフの方が「お帰りなさい」と言ってくれると、喜んで報告します。老人会に大家さんが誘ってくださって、最初は嫌がっていたのにお手伝いしてみなさんに喜んでもらえたら、あれこれやるようになりイキイキしだしました。とても前向きな父なのでがんと共存しながら、このまま平均寿命くらいまで生きるんじゃないかと思っていました。



それでも年なのかオキシコンチンなどのがんの疼痛を抑える薬の影響か、記憶力や認知力、判断力の衰えをかなり感じるようになってきました。歩くスピードが落ち、背が縮み、不安からか同じことを何度も言うようにもなりました。



それまでも妹が働いて育児をしながら積極的に見てくれていましたが、子育てが終わる私が近くに行って協力すれば、より便利です。またこのまま離れて暮らして、父になにかあったら一生後悔すると思い、退職を覚悟して上司に相談しました。いろんな方に動いていただいて、相談から半年ほどで実家の近くに転勤させてもらえることになりました。



父の部屋は2人で生活するには狭く、また25年も別々に暮らしてきたので私は一緒には住まないことにして、歩いて10分のところに部屋を借りました。転勤の前にヘルパーをしている親友に相談をして、ケアマネさんを紹介してもらい介護サービスの申し込みをしました。



部屋に人を入れるのを嫌がり、自分で出来るから介護サービスなんていらないと言っていた父ですが、じきに慣れ特に好きなヘルパーさんやナースさんが来ると、嬉しさが顔に出るので、笑いをこらえるのに必死なケアマネさんや私でした。残業のない日や休みの日に行くと笑顔で迎えてくれて、あれこれ報告してくれるのが私も嬉しかったです。


ただ新しい抗がん剤に変えた頃から、足が象のように浮腫み、痛痒く眠れないと言い始めました。また突発性難聴にもなり、大学病院に通うことになりました。疲れやすくなった父1人では病院に行くのが難しく、妹と交代で付き添うようになりました。電話をしても出ないので部屋に行ってみると寝ていることも多くなりました。近くに住んでいたので、すぐに行けて良かったです。


お薬の副作用やストレスかと妹やヘルパーさん、ケアマネさんとも話して、主治医の先生に相談して抗がん剤治療は中断することになりました。
また通院も大変そうなので訪問医に切り替えすることにしました。女医さんが来てくださると父の顔に喜びが表れていて、またケアマネさんと笑いをこらえました。父の介護はいろんな方が関わってくださり、私たち家族の負担はかなり軽減されとても恵まれた環境でした。



その頃私の職場は同僚の1人が産休に入いることになり、その人の仕事を全部もらいました。それに加えて、体制や方針、システムが代わりさらに仕事量が増えて行きました。ストレスチェックでは危険水域。産業医の面談を勧められていましたが、時間的余裕がありませんでした。平日は遅くなるので父のところになかなか行けなくなり、休みの日に行くと「仕事大変だなぁ。無理はするなよっていってもお姉ちゃんはやるんだよな」と言い、妹からも「お姉ちゃんは仕事が忙しいんだよ」と父が言っていたと聞きました。



土曜の夕方。大家さんから老人会のクリスマス会に来なくて、部屋にも電気がついていないから心配だと電話をもらいました。電話をかけてもチャイムを鳴らしても反応がありません。新聞受けに朝刊が入ったままの部屋に入ると、座ったままひっくり返ったような体勢で父がベッドに倒れていました。意識がはっきりしない状態だったので、ゆすって起こしました。机を見ると朝6時に薬を飲んだ記録があり、そのあとに倒れたようです。半日近く経っていました。



ドキドキしながらまず訪問医を呼んで診てもらったところ、血圧が下がっているのと指先から血中酸素が測れない。理由はわからないけれど、救急車を呼んで元の総合病院で原因を調べてもらったほうがいいとのことでした。その日の夜、総合病院はとても忙しかったそうで、本来なら断られていたようです。男性ナースさんが機転を効かせ、今までかかりつけだったことや意識がはっきりしていないなど、先に事情を話して受け入れてもらえることになりました。


救急車が来るまで多少時間がかかりました。そのあいだ少し意識が戻った父に救急車でこれから病院に行くことを話したら、迷惑をかけないように自分で着替えて靴を履いて立とうとしました。そんな場合じゃないのに、非常事態になると変に盛り上がる父らしいと思いました。


救急車が来ると大家さんが心配して寒い中、出てきてくださいました。いつも治療などで入院するたびにお見舞いに来てくださる親切な大家さんです。しばらく救急車の中でもバイタルチェックをしたり病歴や事情を聞かれ、酸素マスクをして血中酸素濃度の変化を確認しています。


到着後、結構時間が経ってからの出発になり、寒いのでもうおうちにお戻りくださいと大家さんに伝えました。付き添う人もシートベルトが必要なんだとか、自分の家のすぐそばを通るんだとか、そんなことをボーッと考えながら父と病院に向かいました。


病院に着いて、しばらく待合室にいるあいだにMRIなどを撮っていたようです。自分と同じくらいの年配の当直の先生に呼ばれてました。ほかにご家族はいらっしゃいますか?と聞かれましたが、妹に何度電話をしても通じなかったので、私が1人で説明を聞くことになりました。


言いづらそうに、恐らく肺のリンパ管に転移している。かわいそうだけど手の施しようがない。今すぐ逝ってもおかしくない状態だし在宅でみるのは難しい。がんばっても年は越せないでしょう、とその場で告げられてしまいました。



そのあとケアマネさんにLINEで連絡をしたら、すぐに電話が来ました。説明しながら泣いてしまったら「お姉さんしっかりして。お父さんは生きよう生きようとしているんだから、お姉さんが泣いたら心配するよ。お姉さんは普段通り接してあげなきゃ」と叱られました。ケアマネさんはご主人をがんで亡くされている方で、経験があるからこそのアドバイスだと思い、気を取り直しました。


救急室での父は病衣に着替え、酸素吸入をしてもらい意識がいくらか戻ったようでした。あれこれ同意書や書類を書いて、腕時計や着てきたものを渡されました。腕時計は前の年の誕生日にあげたものでした。


翌日には4人部屋に移りますが、しばらくして不穏になり、ナースステーション横の処置室に連れていかれ、身体拘束されてしまいました。終末期になると身のおきどころがなくなり、どうしていいかわからなくなってしまう人もいるようです。水色の病衣に鍵つきの白いミトンをはめ、動いたらわかるように鈴をつけらたら、そのとき40キロくらいの父がガリガリのドラえもんみたいだと不謹慎にも思ってしまいました。



それからは会社は決算月でもあったので毎日残業でしたが、父のところに行きました。4人部屋に戻りしばらくしたら、呼吸困難で喘ぐようになりうるさいため、病棟のナースステーション近くで一番奥の個室に移りました。せん妄状態になったり意識がないことも多かったけれど、奇跡的にしっかりまともに会話ができた日があり、それまでの状態が良くなくもうそんなことが起きると思っていなかったので、泣いてしまいました。元々私は感情が高ぶると泣きやすいほうです。嬉しくても悲しくても怒っても泣きます。涙腺が壊れた蛇口みたいです。


「お父さんなにずっと寝ちゃってるんだよ。びっくりしたじゃん。クリスマスにケーキ持ってきたけど寝ちゃってて食べないから、代わりに私食べといたよ。お正月は私が鰤のお雑煮作るから食べようね。おばあちゃんがお餅100個も送ってくれたよ。食べきれるかねぇ」


奇跡のあの日、最後に父からはっきり聞いた言葉は「お姉ちゃんはがんばり屋だな。無理するなよ。こう見えてもさ、俺はお姉ちゃんのことを大切に思っているんだよ。明日も仕事だろ。もう帰りなさい」
でした。


亡くなる前日の昼間に父にとって初のひ孫が産まれ、父に報告をしました。妹から送られてきた写真を拡大して、眼鏡をかけさせて見せました。夜になりヘルパーで私の親友が来てくれて、田舎のお餅は丸餅だとベッドサイドで話していたら、笑顔で大きくうなづいて会話に参加していました。親友が「お父さんまた来るよ」と言ったら嬉しそうでした。


起き上がりたくて、でも自力では無理で私と妹の手を取り挑戦しましたが、うまくいかず残念そうでした。もう夜だし寝たほうがいいよと言ってもいつまでも目を閉じようとはしませんでした。そして本当に余命宣告の通りの大晦日の明け方。私と妹に看取られながら、父は生ききって息をふっとはいて旅立ちました。私たちの仕事が休みで立ち会えるときに逝くのが、優しくて実は寂しがりな父らしいと思いました。


年明け三が日は斎場がお休み。最短で4日通夜5日葬儀になり、親戚に助けてもらいながら妹と2人で喪主になり送り出すことにしました。2日は葬儀の打ち合わせでした。


業務もたてこみ2日と3日は会社に行き非公式で仕事をしました。8日から仕事に本格復帰。やることは山ほどあります。休みの日は父の部屋やもろもろの片付けや手続きがあったけれど、私はお手伝い程度で妹が主になってやってくれて、私は仕事に集中させてもらいました。


毎日お昼休みを取っていたら間に合わないと、持ってきたおにぎりやパンを食べて終わり。やってもやっても残業が続き、家には寝に帰るだけ。そのうち寝ていても仕事の夢を見たり、優先順位がつけられなくなり、ミスが増え叱られ自分を責めたり、自分でなにをしているか、なにをしたらいいのかわからなくなっていきました。



ご飯を食べるのが面倒になり、お風呂にも入りたくなくなり、音楽がうるさく感じて聴けなくなり、緊張からか朝早く目が覚めてしまう。からだが疲れているので、ギリギリまで横になり着替えて歯をみがいて化粧もそこそこに家を出る。


電車がホームに入ってくるのを見ながら、いまここで飛び込めばもう会社に行かなくてもよくなる。でもそうしたら電車に乗っている人やいろんな人に迷惑がかかる。消えたい消えたい消えてしまいたい。偶然事故や災害に遭わないか。私の存在がなくなればいいのに。


毎日そう考えている自分に気がついて、妹に話しました。妹は病院を予約するから、まずすぐに会社を休みなさいと私に言いました。それでも最低でもこの仕事を仕上げないと迷惑がかかるから、この日までは休めないと駄々をこねて、心配する妹を困らせてしまいました。そして診察のその日から休職することが決まりました。うつ病でした。


休みだして3ヶ月目。人生で初めてこんなに長いことお休みをしています。最初のひと月余りは会社からほぼ毎日問い合わせの電話が来て、いつ電話が来るんだろう?と待ち構え、着信音を聞くだけで私なにミスしたのかな?と動悸がするのでバイブにしました。今は主治医の電話禁止の指示を会社に伝えたので、電話が来なくなりました。眠れるようになって、あまり仕事の夢は見なくなりました。休職後は他部署からの応援と補充があり、私がいなくても会社は回ると実感しています。お陰さまで少しずつ回復してきていますが、それでも今戻って同じ仕事をできる自信はまったくありません。


1年前の今日こんな風になっているなんて誰も想像もしていなかったでしょう。ただ私の1年前の日記でなにをしていたかは覚えていないのですが、同時進行や細かい書類作成作業は向いていないと書いていました。もうその時点でこの仕事ややり方が合っていないことを自分ではわかっていたんですね。歳を取りこれまでの働き方や努力の仕方も通用しないということも、病気になってわかりました。


いつ病気が寛解するのか、この先どうなって、なにができるのかわかりません。だけど子育てを終えて両親を見送ったこのタイミングで病気になり、こうして休んでいる今が「わたしの転機」で現在進行形なのだと思います。





















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